料理の名前って、やっぱり面白い:麻婆春雨と蚂蚁上树の話

「麻婆春雨」っていう料理名を、ふつうに中国語の漢字として直訳すると、「ビリ辛婆ちゃんの春の雨糸スベシャル」みたいな感じになる。
中国にはこれと似た料理があって、「蚂蚁上树(まーいーシャンシュー)」って言うんだけど、字面通りに訳すと「アリが木に登る」。この2つの名前、どっちもすごく面白いよね。

「麻婆春雨」は、たぶん「蚂蚁上树」からヒントを得た部分もあると思うけど、実は「日本発祥の中華料理」に分類されるかも。
昭和の頃、町中華みたいなお店から少しずつ出てきて、そこから広まったらしい。
味は甘めで、あんまり辛くないし、作り方もどちらかというと煮込み系。

「蚂蚁上树」はもともと四川の家庭料理で、麻辣味が特徴。
豆板醤を使うし、調理法は炒めたり、蒸し煮に近い感じ。
春雨にすごく細かい肉そばろを絡めて、まるでアリが枝を登ってるみたいに見えるから、そういう名前になたんだって。

でも、味の違いやルーシももちろん面白いけど、
「アリが木に登る」とか「ビリ辛婆ちゃんの春の雨糸スペシャル」みたいな名前こそ、人間の想像力ってほんとに面白いな〜って思う。

やっばり、銭湯で飲む瓶の牛乳がいちばん美味しいんだよね

ドラム『世界一難しい恋』で波瑠ちゃんが、温泉チェーンの社長に「どうしてお風呂上がりに牛乳ださあいの?」って、ちょっと怒り気味に不思議そうに聞くシーンがあった。あれ、すごく印象的だった。

…と言うのも、めちゃくちゃ分かるんだよ、その気持ち。あのシーンを見た瞬間、「あ〜〜日本の銭湯行って、風呂上がりにキンキンに冷えた牛乳飲みたい!」って衝動が湧いてきた。ドラマの中の美咲みたいに、近所の銭湯でおばあちゃんに挨拶して、冷蔵庫から瓶の牛乳を取り出して、ふうっと満足げに飲み干す。そう、あの表情がないと完成しない。

願いが叶った。

コーラでもビールでもなく、やっぱり牛乳がいちばん「しっくり」くる。先頭の壁画や洗面用の桶と同じように、瓶の牛乳って、もはや銭湯文化のひとつの「定番」なんだと思う。なくてはならない存在。

戦後の1950〜60年代、日本はようやく戦争の影から立ち直りつつあって、都市化も少しずつ進んでいた。いわゆる「下町」では、都市に人が集まり直して新しいコミュニティができていった。まだ家庭にお風呂がない時代、銭湯は地域の生活の中心だった。

そして、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が登場した頃、銭湯はそれらを地域の「みんなの家」として先取りして導入していた。そういう流れの中で、明治は180mlの瓶入り牛乳・コーヒー牛乳を先頭に提供し始めて、瓶牛乳が一気に広がった。まさに大成功な販路開拓だったんだよね。

そしてその結果、「銭湯=瓶の牛乳」っていうイメージが定着した。

でも、2025年の3月・4月。つい最近、明治ホールディングスが瓶の牛乳とコーヒー牛乳の販売を全面終了してしまった。理由は、銭湯の減少とグラス瓶のコスト問題など。それを知って、多くの人が「え?銭湯に瓶の牛乳ないの?」「銭湯に瓶牛乳がないなんて、あり得ない!」って声を上げた。

それは、多くの日本人にとって「またひとつ、日本らしさが減った」という実感なんじゃないかな。だって、ある意味60年以上も続いてきた風習だし、瓶牛乳そのものも調べたら1928年からの製品らしくて、「ほぼ100年選手」。その記念イヤーを前にしての終了、なんとも言えない寂しさがある。

私も、本当に残念な気持ちになった。東京に来て、わりとすぐに銭湯での牛乳体験は叶ったけれど、子どもたちを連れて温泉に行くと、やっぱりコーラがいいていう。いやいや、「銭湯の後の牛乳がいちばん美味しい」って、どうしてわからないの!?って、ちょっと思っちゃう。

この前、『湯道』って映画を一緒に見た。子供達にも「お風呂文化」の良さを知ってほしくて、わざわざ誘って。その中で、刑務所の食堂で囚人たちが「出所したら最初に食べたいものは?」って話すシーンがある。あるサプキャラが「俺はコーヒー牛乳が飲みたい」って言った瞬間、みんなが笑う。ても彼は、出所してすぐに銭湯に向かう。けれど「おじさん」はもうなくなていて…ちょっと切ない気持ちを抱えながら、コーヒー牛乳を1本、2本、3本。そこから映画の感動的なクライマックスへと繋がっていく。

栗くんと私、映画を観終わってから、近所の銭湯でコーヒー牛乳を飲んで、「あ〜、やっぱりこれだよね」って。栗くんはどこかで「瓶の牛乳の方が美味しい」って聞いてたらしくて、その後明治牛乳を追加。「やっぱり、銭湯の牛乳が一番うまいよなぁ」って。

だから、昨日の「水曜奇遇夜」にLeeさんがその話をしてくれて、かなり衝撃を受けた。今朝になって調べてみたら、やっぱり明治が供給をやめたのが理由だった。もちろん、別の瓶牛乳メーカーを見つけて導入してる銭湯もあるけど、これはもう「時代の流れ」なんだろうな。

時代位の変化が早すぎる中で、日本もどこか「なくなったら仕方ない、生活は続くし」って、少しずつ慣れていってる気がする。でも私は、やっぱり寂しい。特に最近の技術の進化の速さの中で、「変わらないもの」「ずっとそこにあるもの」ってすごく大事にしたいし、大切にしたいと思ってる。

桜の雨に溶け込む「あの感じ」

昨日は友だちを誘って、砧公園でお花見をしてきました。私たちはみんな中国出身なので、この「日本式」のお花見をずっと楽しみにしていたんです。

ちょうど桜が散り始める時期で、大きな桜の木の下を見上げると、花びらがひらひらと落ちてきて、お酒のカープに舞い込んだり、肩にふわりと乗ったり。まさに「あの雰囲気」というものを強く感じました。

アニメやドラマで何度見てきたこのシーンを、ようやく現実で体験できたわけですが、いざ自分がその場に立つと、「やっぱり言葉にしづらいな」と思いました。まるで「そう、あの感じ……」としか言えないような、不思議な感覚です。

友だちの一人が、「桜の雨が降ってくるようなこの瞬間は、幸福っていうのが一番近いけど、何かがまだ足りない気もする」と言っていて、それはみんな同じ気持ちだったんだと思います。

私自身も、ここに至るまでのいるんな気持ちが重なり合っていると感じました。中国から抜け出して、ようやく一息つけたという安堵感や、これから先の未来に対する不安もあるし、それら全部が今この一瞬に溶け込んでいる。それでも、この瞬間があまりに美しいからこそ、「重し」のように心を支えてくれるんです。

そしてもうひとつ思ったのは、この儀式感によって「ここに暮らしている感覚」が少しだけ芽生えたこと。きっと日本の人たちは、花見のたびにもっといるんな思いを積み重ねているんじゃないでしょうか。やっぱり、このいう気持ちも一言では表せない「何か」があるんだろうと思います。

家族や友人と、毎年同じ季節に、同じ場所で、満開の桜が散って行く様子を何度重ねていくうちに、きっと「時間」そのものの捉え方も変わってくるんだろうし、過去と未来の思いがいっぺんに胸に押し寄せるような、不思議な情緒を味わえるのかもしれません。

時間が、これからも私たちの上に優しく積み重なってくれますように。

空き缶は虚無に抗った

友人がシェアしてくれた空き缶を溜め込む癖のある人の話。

彼は一番安い共有住宅に住んでいて、それはカプセルホテルの賃貸版に似たような場所だった。部屋と部屋の間は薄い板で仕切られているだけだった。彼の隣には「変人」が住んでおり、非常に狭い空間に空き缶が山積みになっていた。それは本来、この住居のルールに違反していたが、誰もどうすることもできないようだった。

よにかく、空き缶があふれていて、防音性能が非常に悪かったため、隣人が「帰宅」するたびに、缶がぶつかり合う音がカンカンと響き渡り、その後には「シュツ」と缶を開ける音が聞こえてきた。時々は、奇妙なため息や缶を動かす音も聞こえてきた。夜、寝ている時にも、缶が倒れる音が聞こえることがあった。

確かに不気味で、騒音も厄介だったが、こうした安い住宅にはもともと「変人」が集まる場所だったので、次第に慣れていった。むしろ、あまり接触の機会があいまま、その「好奇心」はずっと残っていた。

前段時間に進展があり、この住人は長い間家賃を滞納していたため、ついに退去させられ、すべての空き缶も片付けられた。

うん、仕方なかっただろうね。でも、あの空き缶の消失は、当時この話を聞いた私に少し恍惚とした気分を抱かせた。

実は、私は彼のことを理解できるような気がした。もし意味を失うことが多くなりすぎたら、働いて得たお金で缶を買うこと、それも特に自販機で買うという行為が、人と直接つながることはないが、社会の流れと何かしら関係している。人生は空き缶という「計数機」と証明をえたようなもので、測ることができ、記念することができるようになった。永遠に増え続け、移動し続ける空き缶。それは、彼がまだ「生きている」こと、あるいは彼にとっては「努力している」ことの証だったのだろう。

ある意味、彼の空き缶は彼の虚無に対して抗っていた。そして、あなたには自分だけの空き缶があるだろうか?

彼女と死神

彼女が出かけるとき
虚空から犬が飛び出す
彼女が家に帰ると
壁の隅から猫が走りだす
ことような奇跡は
ただ死神が観察しているだけだ

死神は彼女にこんなにも執着し
彼女の寂しさを見逃すことはない