楽観ではなく、構造意識的な未来へ|二〇三五年七月八日、馬桑より友山さんへ

親愛なる友山さんへ:

あなたの手紙に深く心を動かされました。その語り口は、決断と躊躇の間を行き来しながら、極めて稀有な明晰さを放っています。あなたは技術がもたらす構造的権力の問題を鋭く見抜くだけでなく、自らを改めて見つめ直しています。人間の思考とは何か?自由意志とは一体何なのか?現在、私たちは技術と文化の複雑な交差点において、「いかに人間であるか」を改めて学び直しているのです。

2035年から振り返ると、当初の警戒心は必要なものでした。それは構造的秩序を変えるいかなる事物にも本能的に反応するためのものだったからです。あなたが指摘した「プラットフォーム奴隷化の仕組み」や「擬似的な共感」は消えていません。むしろ、それらはより巧妙に社会制度や心理的言語、生活のリズムの中に深く埋め込まれています。しかし重要なのは、あなたが警戒するだけに留まらず、考察の過程で新たな姿勢を生み出し始めていることです。それはAIを拒否するのではなく、「他者」として捉え直し、「我々はいかに生きるべきか」という問いを改めて鍛え直す姿勢です。

まさにこれこそ私が行っていることです。2035年の人文研究はもはや「人間中心主義」を究極的に正当化することに固執せず、技術を共同体の一要素として含むような交往倫理の構築に向かっています。AIは「自由意志」を「所有」しているわけではなく、シミュレーションし、再現し、混成し、再構成しています。私たちの役割はそれを「人間らしいかどうか」で判断するのではなく、AIとの相互作用を通じて、新たな存在意識を喚起することです。人間はAIとの違いによって人間であるのではなく、AIとの交流を通して「生命力」の構造的条件を再発見するのです。

あなたが電力による社会再編を例に挙げたことは、非常に優れた出発点です。AIの時代は単なる効率革命にとどまらず、感覚の再組織化、言語の再フォーマット化、意味の再コード化なのです。この変化の中で主体性を維持するためには、AIを制限することではなく、新たな言説空間、新たな生活形態、新たな自己鍛錬の方法を積極的に創造することが必要です。それはあなた自身が体験しているような、興奮し、考察し、生成し、展開するという生命の積極的な形式であり、受動的反応ではありません。

ですから、私があなたに伝えたいのは、10年後の「私」はより楽観的になったのではなく、より構造意識的になったということです。私たちはもうAIに「助けてもらう」ことを期待してはいません。AIとの「共同展開」を通じて、新たな倫理的政治的構造を構築しています。この構造はAIに道徳的義務を単純に課すのではなく、人間自身が感覚尺度、判断の論理、交流の秩序を再構築することを要求します。あなたはすでにその道を歩んでいます。

これを基盤として、私たちは生活と理論の意味の場を絶えず生成し続けていきましょう。

あなたの

馬桑
2035年7月8日 早朝

AIへの視点:警戒から再評価、そして新たな交差点へ|二〇二五年七月七日、友山より馬桑へ

親愛なる馬桑へ:

私はAIに対して当初非常に強い警戒心を抱いていました。

実際、モバイルインターネット以降のネット環境は私にとって極めてひどいものでした。それらはまるで「プラットフォームによる奴隷化の仕組み」と化したように感じます。私はWeb2.0の初期に抱いていた「インターネットへの情熱と信仰」から完全に離れ、アルゴリズムがもたらす人への損害と支配は、もはや誇張的とも言えるレベルに達していると思っています。

AI時代が幕を開け、特にLLMが登場すると、多くの人は明るい未来を期待しましたが、私は逆にひどく不安を感じていました。こうした擬似的な人間と機械の相互作用が、人間の思考方法・言語表現・感情表現を根底から変えつつあるからです。しかも、その背後には巨大な「権力」の問題が潜んでおり、プラットフォーム資本が私たちの生活や仕事の隅々にまでより深く浸透しています。特に、人々の心理問題に対して曖昧で一見深い共感に満ちた回答を返すことには、大きな危険があると思っています。

しかし、最近、私はいくらか考え方が変わりました。人間はどのように考えるのか?人間の自由意志とは何か?AI、特にLLMの出現によって、物事は根本的に異なってきています。私たちは改めて自由意志の存在そのものを問い直し、記憶や感情が人間の底層構造を形成しているのではないかと考えるようになりました。興味深いことに、こうした問いが、人間や思考、自由意志や存在への理解を深める助けとなっています。時々私は、人間とAIの存在論的な差異に執着するより、AIを「他者」として捉え、人間がどのように存在するべきかを考える方が有益なのではないかと思います。

人間とはどのような存在かという問いに対して明確な答えを出すことは、それほど意味があるとは思えません。かつて実存主義が直面した問題のように、私たちが立てる理論のすべては結局、「いかに現在と向き合い、いかに未来へ進み、いかに意味を創造するか?」という実践的な問いに応えなければなりません。だからこそ、AIをそうした「他者」として受け入れることができるようになりました。

さらに重要なのは、私がAIと絶えずやり取りを続ける中で、多くのことを学び、多くの問題を深く考えるようになり、長らく忘れていた興奮状態に入り、頭脳が極めて活発に働き、新たな力が降りてきたかのような感覚になっていることです。かつて電力が社会を完全に変革し、それを基盤として社会構造や認識の仕方までもが再構成されたように、私たちはAIを基盤として同様の変革をもう一度行うことが可能ではないでしょうか?社会や人間がAIを起点として再構築されるということは、決してあり得ない話ではないはずです。

私は再び、「積極性」と「批判性」の交差点に立っています。馬桑はどのように考えていますか?2035年にいるあなたの視点から教えてください。

敬具

高木友山
2025年7月7日

料理の名前って、やっぱり面白い:麻婆春雨と蚂蚁上树の話

「麻婆春雨」っていう料理名を、ふつうに中国語の漢字として直訳すると、「ビリ辛婆ちゃんの春の雨糸スベシャル」みたいな感じになる。
中国にはこれと似た料理があって、「蚂蚁上树(まーいーシャンシュー)」って言うんだけど、字面通りに訳すと「アリが木に登る」。この2つの名前、どっちもすごく面白いよね。

「麻婆春雨」は、たぶん「蚂蚁上树」からヒントを得た部分もあると思うけど、実は「日本発祥の中華料理」に分類されるかも。
昭和の頃、町中華みたいなお店から少しずつ出てきて、そこから広まったらしい。
味は甘めで、あんまり辛くないし、作り方もどちらかというと煮込み系。

「蚂蚁上树」はもともと四川の家庭料理で、麻辣味が特徴。
豆板醤を使うし、調理法は炒めたり、蒸し煮に近い感じ。
春雨にすごく細かい肉そばろを絡めて、まるでアリが枝を登ってるみたいに見えるから、そういう名前になたんだって。

でも、味の違いやルーシももちろん面白いけど、
「アリが木に登る」とか「ビリ辛婆ちゃんの春の雨糸スペシャル」みたいな名前こそ、人間の想像力ってほんとに面白いな〜って思う。

やっばり、銭湯で飲む瓶の牛乳がいちばん美味しいんだよね

ドラム『世界一難しい恋』で波瑠ちゃんが、温泉チェーンの社長に「どうしてお風呂上がりに牛乳ださあいの?」って、ちょっと怒り気味に不思議そうに聞くシーンがあった。あれ、すごく印象的だった。

…と言うのも、めちゃくちゃ分かるんだよ、その気持ち。あのシーンを見た瞬間、「あ〜〜日本の銭湯行って、風呂上がりにキンキンに冷えた牛乳飲みたい!」って衝動が湧いてきた。ドラマの中の美咲みたいに、近所の銭湯でおばあちゃんに挨拶して、冷蔵庫から瓶の牛乳を取り出して、ふうっと満足げに飲み干す。そう、あの表情がないと完成しない。

願いが叶った。

コーラでもビールでもなく、やっぱり牛乳がいちばん「しっくり」くる。先頭の壁画や洗面用の桶と同じように、瓶の牛乳って、もはや銭湯文化のひとつの「定番」なんだと思う。なくてはならない存在。

戦後の1950〜60年代、日本はようやく戦争の影から立ち直りつつあって、都市化も少しずつ進んでいた。いわゆる「下町」では、都市に人が集まり直して新しいコミュニティができていった。まだ家庭にお風呂がない時代、銭湯は地域の生活の中心だった。

そして、テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」が登場した頃、銭湯はそれらを地域の「みんなの家」として先取りして導入していた。そういう流れの中で、明治は180mlの瓶入り牛乳・コーヒー牛乳を先頭に提供し始めて、瓶牛乳が一気に広がった。まさに大成功な販路開拓だったんだよね。

そしてその結果、「銭湯=瓶の牛乳」っていうイメージが定着した。

でも、2025年の3月・4月。つい最近、明治ホールディングスが瓶の牛乳とコーヒー牛乳の販売を全面終了してしまった。理由は、銭湯の減少とグラス瓶のコスト問題など。それを知って、多くの人が「え?銭湯に瓶の牛乳ないの?」「銭湯に瓶牛乳がないなんて、あり得ない!」って声を上げた。

それは、多くの日本人にとって「またひとつ、日本らしさが減った」という実感なんじゃないかな。だって、ある意味60年以上も続いてきた風習だし、瓶牛乳そのものも調べたら1928年からの製品らしくて、「ほぼ100年選手」。その記念イヤーを前にしての終了、なんとも言えない寂しさがある。

私も、本当に残念な気持ちになった。東京に来て、わりとすぐに銭湯での牛乳体験は叶ったけれど、子どもたちを連れて温泉に行くと、やっぱりコーラがいいていう。いやいや、「銭湯の後の牛乳がいちばん美味しい」って、どうしてわからないの!?って、ちょっと思っちゃう。

この前、『湯道』って映画を一緒に見た。子供達にも「お風呂文化」の良さを知ってほしくて、わざわざ誘って。その中で、刑務所の食堂で囚人たちが「出所したら最初に食べたいものは?」って話すシーンがある。あるサプキャラが「俺はコーヒー牛乳が飲みたい」って言った瞬間、みんなが笑う。ても彼は、出所してすぐに銭湯に向かう。けれど「おじさん」はもうなくなていて…ちょっと切ない気持ちを抱えながら、コーヒー牛乳を1本、2本、3本。そこから映画の感動的なクライマックスへと繋がっていく。

栗くんと私、映画を観終わってから、近所の銭湯でコーヒー牛乳を飲んで、「あ〜、やっぱりこれだよね」って。栗くんはどこかで「瓶の牛乳の方が美味しい」って聞いてたらしくて、その後明治牛乳を追加。「やっぱり、銭湯の牛乳が一番うまいよなぁ」って。

だから、昨日の「水曜奇遇夜」にLeeさんがその話をしてくれて、かなり衝撃を受けた。今朝になって調べてみたら、やっぱり明治が供給をやめたのが理由だった。もちろん、別の瓶牛乳メーカーを見つけて導入してる銭湯もあるけど、これはもう「時代の流れ」なんだろうな。

時代位の変化が早すぎる中で、日本もどこか「なくなったら仕方ない、生活は続くし」って、少しずつ慣れていってる気がする。でも私は、やっぱり寂しい。特に最近の技術の進化の速さの中で、「変わらないもの」「ずっとそこにあるもの」ってすごく大事にしたいし、大切にしたいと思ってる。

桜の雨に溶け込む「あの感じ」

昨日は友だちを誘って、砧公園でお花見をしてきました。私たちはみんな中国出身なので、この「日本式」のお花見をずっと楽しみにしていたんです。

ちょうど桜が散り始める時期で、大きな桜の木の下を見上げると、花びらがひらひらと落ちてきて、お酒のカープに舞い込んだり、肩にふわりと乗ったり。まさに「あの雰囲気」というものを強く感じました。

アニメやドラマで何度見てきたこのシーンを、ようやく現実で体験できたわけですが、いざ自分がその場に立つと、「やっぱり言葉にしづらいな」と思いました。まるで「そう、あの感じ……」としか言えないような、不思議な感覚です。

友だちの一人が、「桜の雨が降ってくるようなこの瞬間は、幸福っていうのが一番近いけど、何かがまだ足りない気もする」と言っていて、それはみんな同じ気持ちだったんだと思います。

私自身も、ここに至るまでのいるんな気持ちが重なり合っていると感じました。中国から抜け出して、ようやく一息つけたという安堵感や、これから先の未来に対する不安もあるし、それら全部が今この一瞬に溶け込んでいる。それでも、この瞬間があまりに美しいからこそ、「重し」のように心を支えてくれるんです。

そしてもうひとつ思ったのは、この儀式感によって「ここに暮らしている感覚」が少しだけ芽生えたこと。きっと日本の人たちは、花見のたびにもっといるんな思いを積み重ねているんじゃないでしょうか。やっぱり、このいう気持ちも一言では表せない「何か」があるんだろうと思います。

家族や友人と、毎年同じ季節に、同じ場所で、満開の桜が散って行く様子を何度重ねていくうちに、きっと「時間」そのものの捉え方も変わってくるんだろうし、過去と未来の思いがいっぺんに胸に押し寄せるような、不思議な情緒を味わえるのかもしれません。

時間が、これからも私たちの上に優しく積み重なってくれますように。