政治の世界において、新たな潮流が生まれては消えていく。しかし、その多くは正面からの論戦で敗れ去るのではなく、より静かで巧妙な手口によってその鋭さを失っていく。「政治的言説の乗っ取り」とは、まさにこの現象を指す言葉である。それは、既存の政治勢力が、新興勢力や若者たちが時間と情熱をかけて築き上げた政治的資産――すなわち、特定の世論や問題意識――を、いとも容易く、そして低コストで「買収」する技術に他ならない。これは、挑戦者を無力化するための、静かなる支配のメカニズムなのである。参政党のような、インターネットを駆使して既存政党が見過ごしてきた国民の不満を掬い上げる勢力が登場すると、彼らが耕した土壌は、やがて既成政党にとって格好の収穫対象となる。これは既存勢力の強さの証左であると同時に、自ら新たな言説を生み出せず、周縁から収穫せざるを得ないという弱さの表れでもある。彼らは真の変革を伴うことなく、政治的裁定取引によって自己の延命を図っているのだ。
この構造は、マクロなレベルで最も顕著に現れる。新興政党である参政党が掲げた「日本人ファースト」というスローガンは、その典型例だ。彼らの主張は、新自由主義や株主資本主義を「行き過ぎたグローバリズム」と断じ、グローバルエリートに対する「大衆の逆襲」として自らを位置づける、明確なポピュリズムであった 。消費税の段階的廃止や社会保険料の見直しといった具体的な経済政策を掲げ、国民の手取りを増やすことを約束する一方で 、その根底には、日本の停滞は外国人のせいであるかのような、排外主義的な感情を煽る側面も存在した 。この生々しく、しかし一定の支持を集めた言説に対し、自民党保守派の筆頭である高市早苗氏は、より洗練された国家主義的ナラティブで応じた。「日本をもう一度、世界の中心で輝く国に」、「総合的な国力の強化」 といった彼女の言葉は、国民の不満に寄り添うのではなく、国家の再興というより大きな目標を提示する。参政党の反グローバリズムは、高市氏の語る国内産業の強化や経済安全保障という文脈に吸収され 、日本国民の優先という訴えは、「国家の主権と名誉」や「古来の伝統」を守るという、より伝統的で保守的な目標へと昇華される 。ここで行われているのは、参照軸の巧みな転換である。参政党が設定した「大衆 対 エリート」という国内の対立構造を、高市氏は「日本国家 対 世界」という国家間の競争の構図へとすり替える。これにより、国家の守護者としての自民党の正統性が再確認され、参政党は単なる抗議運動へと矮小化されてしまう。国家というシンボルをより効果的に利用できる既存勢力が、ポピュリストのエネルギーをいかにして乗っ取るかを示す、見事な手本と言えよう。
言説の乗っ取りは、ミクロなレベルではさらに外科手術的な精度で行われる。奈良公園の鹿をめぐる騒動は、その象徴的なケースだ。観光客、特に外国人が鹿を蹴る動画が拡散し 、また鹿によって観光客が怪我をする事例も増加する中で 、「外国人が我々の神聖な伝統を軽んじている」という排外的な感情が醸成される土壌が生まれていた。地元の活動家がこのテーマで政治的資産を築き上げる中、高市氏はこの問題に絶妙なタイミングで介入する。演説で鹿が蹴られる問題に触れ、「とんでもない人がいます」と懸念を示しつつも 、決して外国人と名指しすることは避け、法を守る外国人への風評被害があってはならないと配慮を見せる 。そして、決定的な一言が続く。「私も奈良人」。この一言は、政策論争を超えたアイデンティティの appropriation(占有)である。彼女は、この問題に対する自身の懸念が、地元の活動家と同等か、あるいはそれ以上に真正なものであると宣言したのだ。国政の有力政治家である彼女が共有されたアイデンティティを主張した瞬間、ローカルな問題の所有権は彼女の手に移り、元の活動家はその存在意義を奪われる。これは、言説の乗っ取りが、政策やスローガンだけでなく、「真正性」そのものをめぐる闘いであることを示している。自身の経歴という政治的道具を使い、いかに効率的にローカルな不満の代弁者としての地位を確立できるか、その冷徹な戦略がここにはある。
そして、最も高度な乗っ取りの形態は、剥き出しの排外主義を「国家安全保障」という専門的で正当な政策課題へと「洗浄(ロンダリング)」するプロセスに見られる。街頭で「中国人に対しての入国の規制」「土地の規制」といった直接的な言葉で支持を訴える平野雨龍氏のような活動家は、その政治的エネルギーの源泉だ 。彼女の訴えは、国の存亡をかけた叫びであり、未加工の政治的鉱石である。これに対し、小野田紀美氏は、同じ中国への警戒感を、全く異なる次元へと引き上げる。彼女が問題にしたのは、中国人そのものではなく、国会議員会館に設置された「中国製のロボット掃除機」であった 。この象徴的な転換は、移民問題という生々しいテーマを、データセキュリティや経済安全保障という、より技術的で議論しやすい領域へと移し替える。さらに、彼女は「違法外国人ゼロ」というスローガンを掲げ 、不法滞在やビザの不正利用の厳格な取り締まり、外国人による土地取得のデータベース化といった、法と秩序の言語で政策を語る 。平野氏の生の要求が、専門的な政策言語へと翻訳された瞬間である。そして最終的に、彼女が外国人政策や経済安保を担当する大臣に任命されたことで、この乗っ取りは完成する 。国家は、街頭の排外的な感情を吸収・浄化し、それを官僚機構の一部として制度化したのだ。これは、単なる模倣ではなく、周縁の思想を「代謝」する国家装置の能力を示している。生の感情は分解され、そのエネルギーだけが吸収され、国家機構を強化するための新たな政策として再構成されるのである。
これら一連の事例が示すのは、排外主義や単純な敵対構造に依存する政治的言説が、新興勢力にとって戦略的な行き止まりであるという事実だ。「日本人ファースト」や「外国人の脅威」といったスローガンは、感情に訴えやすく、一見すると効果的に見える。しかし、その政策的ハードルの低さゆえに、既存の権力者によって容易に模倣され、より洗練された形で再パッケージ化されてしまう。問題は、こうした言説が、それを支持するとされる若者世代の真の関心と乖離している点にある。
| 政治的言説のテーマ | 提唱者 | 日本の若者(18~29歳)が最も懸念する社会問題(内閣府世論調査より) |
|---|---|---|
| 「日本人ファースト」 | 参政党 | 物価、景気、国の財政 |
| 「外国人の脅威」(対中強硬論) | 平野雨龍、小野田紀美 | 経済的なゆとりと見通しが持てないことへの不満 |
| 「日本の再興」(国家主義) | 高市早苗 | 個人の生活の充実を重視する傾向 |
内閣府の世論調査によれば、18歳から29歳の若者層は、上の世代に比べて愛国心が弱く、個人生活の充実を重視する傾向が強い 。彼らが社会に対して抱く最大の不満は「経済的なゆとりと見通しが持てない」ことであり 、関心事の上位は「物価」「景気」「国の財政」といった極めて現実的な経済問題で占められている 。つまり、新興の右派勢力は、若者の経済的な不安をナショナリズムへの渇望と誤診しているのだ。この戦略的誤謬こそが、彼らの言説を既存勢力による乗っ取りに対して脆弱にしている。なぜなら、経済問題の根本的解決は既存の政策の変更を伴うため、支配層にとっては不都合である一方、ナショナリズムというシンボルを扱うことの方がはるかに容易だからだ。結果として、政治は富と資源の再分配という本質的な議論を避け、象徴とアイデンティティをめぐる代理戦争に終始することになる。
では、若者世代が真に政治の舞台で足場を築くためには、どのような道が残されているのか。それは、乗っ取りが本質的に不可能な言説を構築することである。すなわち、彼ら自身の世代が直面する、複雑で、データに裏打ちされ、そして深く個人的な社会経済問題に根ざした政治である。それは、社会保障制度の具体的な改革案であり、賃金上昇のための緻密な政策パッケージであり、将来不安を解消するための詳細な住宅政策である。このような政策的ハードルが高い言説は、単なるスローガンの模倣を許さない。それは、調査データが示す若者の「生活実感」に根ざしているため、アイデンティティの借用では太刀打ちできない真正性を持つ 。そして何より、それは既存勢力に対し、彼らが最も語りたがらない自らの経済政策の失敗という土俵での議論を強いることになる。高市氏が「私も奈良人」と言うのは容易いが、数十年にわたる賃金の停滞と若者の貧困化という現実を前に、自らの政策を弁護するのははるかに困難だ。若者が日本の政治に確固たる楔を打ち込むには、安易な排外主義の政治を捨て、困難ではあるが、より強力な、世代間の経済的正義を問う実質的な政治へと踏み出す以外に道はない。それこそが、既存勢力が決して奪うことのできない、唯一の政治的資産となるだろう。