断片化する認知と「状況認知」

私はしばしば「断片化認知」という語を用いる。ネット上の発言や各種のやり取りを眺めると、AにはBと応じ、BにはCへ飛ぶ——そんな不整合と矛盾が目につく。認知が細切れになった状態である。背景は単純だ。論理教育と思考訓練が慢性的に不足し、認知を鍛え直し、相互に結び付け、一貫性へ収束させる機会がと欲しい。そのうえ、これに逆向きの力が常に作用している。

日常の大半は「権力の粗暴さ」にさらされている。家庭では親、職場では上司や経営、社会では政府——こうした権力に私たちは適応を迫られる。その権力觀自体がまた断片的である。生活の困難さと権力への依存が態度形成を左右し、強い相手には弱く、弱い相手には強いふるまいが温存される。結果として、断片化認知はむしろ強化されがちだ。

ここで論じたいのが「状況認知」である。断片化認知の延長上に生まれ、個別の争点に対しては、その都度「状況」に沿って作動する認知のかたちだ。

第一に、人はそれぞれの場に固有の作法を身につけ、その場のルールに従って語る。たとえば、反日的な空気が支配する場に立てば、人はその場の読みと判断に合わせ、憎悪や怒りを表出する。そこで現れる態度や「認知」は、必ずしも個人の確固たる信念からではなく、多くは状況認知——すなわち場をどう読んだか——の産物である。

以上が第一点である。

しばしば起こるのは、場が変わればふるまいも容易に変わるという事実だ。日中友好の空気が前提の場に移れば、同じ人が判断を更新し、友好的な言い回しや善意ある対話、開放性や理解、さらには同調の姿勢まで示す。状況間の移行は、多くの人の想像以上にたやすい。

しかし、第二点は別にある。より根深く、厄介だ。私たちの「状況」とはそもそも何か。反日という長期的・広範・高強度の状況が社会の至るところに編み込まれている現実がある。そこに浸り続ければ、かつて口にした怒りや憎悪は少しずつ沈澱し、やがて私たち自身の深層に定着する。状況認知は反射的な「本能反応」へと変質しうる。これは率直に言って、怖い。

ただし、「状況認知」は対日感情に特有の現象ではない。むしろ普遍的で日常的である。だからこそ人は、刹那に立ち上がる状況と、長期に作用する状況の双方に抗いながら、自己の一貫性を確立しなければならない。安定した、健全で、空気に流されにくい認知を自らの側に築く必要がある。

警戒を怠らないこと。以上。

コメントする